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世界的舞踊家の豊かな感情を育んだふるさとの山、川、道。
自らを「をどるばか」と言った世界的舞踊家、石井獏が生まれ育った町。
「純粋舞踊」の天下一と称えられ、卓越した創造力で、日本の近代舞踊の確立と発展に偉大な足跡を残した石井獏は、明治十九年、下岩川村長面に生まれる。三種川のせせらぎ、緑豊かな自然に包まれて多感な少年時代を過ごした獏。幼少時からの吃りの劣等感と闘い、難病に見舞われ、失明にあえぎながら、不屈の精神力をもって最後まで踊り続けた五十年にわたる舞踊一筋の人生。それはまさに、自ら称した「をどるばか」の生涯であった。

イタリア人の舞踊家G.V.ローシーとの出逢い。
明治44年(1911年)には、皇居のお堀端に日本初の西洋演劇場建築による帝国劇場がオープンした。ルネッサンス様式を基調とし、舞台の幅15メートル、高さ16メートル、オーケストラ・ピットも回り舞台もあった。内部はイタリア産の大理石が用いられ、通路や階段には深紅の絨毯が敷き詰められていた。
「国賓クラスを招待するのに相応しい大劇場」を建設することを主眼とした帝国劇場は、歌舞伎や演劇とともにオペラの上演を目指し、『ファウスト』や山田耕筰のオラトリオ『誓ひの星』などを制作上演した。当時はほとんどがピアノ伴奏のオペラであり、オーケストラによる本格的オペラの上演の準備のために、大正元年(1912年)、ロンドンのヒズ・マジェスティック劇場で活躍していたイタリア人の舞踊家G.V.ローシーが招かれた。

 ローシーはミラノ・スカラ座舞踊学校出身で、アンナ・パヴロワの教師として有名なエンリコ・チェケッティに学んだといわれている。彼には、帝劇歌劇部の石井獏、小森敏、河合幾代、沢モリノが学び、後に高田雅夫、岸田辰彌、高田せい子が加わった。当時のオペラには必ずといっていいほど、バレエの場があったから、ローシーはまずダンサーを養成するために、基礎教育(クラス)を行った。その様子は、チェケッティばりに杖(六尺棒)をもってリズムを取りながら教え、生徒が失敗すると杖でコズいた、と伝えられている。
                       
    
浅草オペラ始まる
1917(大正6)年、佐々紅華は本格的に浅草オペラの世界に足を踏み入れる。佐々紅華が作曲・演出を担当、演出・振付兼俳優として石井獏、杉寛、沢モリノ他の俳優陣で東京歌劇座が結成され、10月23日から浅草日本館でオペラの常時公演をが始まる。
この常時公演は当初和製創作歌劇が中心だったが、翌1918(大正7)年2月からは、ローヤル館の専属だった清水金太郎・静子夫妻、当時日本一のピアニストと称せられていた澤田柳吉を加え、外国オペレッタや澤田柳吉によるピアノ独奏(ベートーヴェンの「月光」や「悲愴」などを演奏したようだが、観客のヤジに激昂した沢田が舞台から降り、沢田の浅草出演は数えるくらいしかないようだ)を加え、3月末まで行われた。4月からは、アサヒ歌劇団が日本館での公演を行い、清水夫妻、石井漠は旅興行を行う。
石井獏は舞台で活躍するかたわら多くの舞踊家を育て、日本のモダンバレエ、モダンダンスなどの発展に大きく貢献しました。
     
なまはげと石井獏との意外な関係。
毎年2月上旬に真山(しんざん)神社境内で3日間開催される「なまはげ柴灯(せど)まつり」は、東北に数ある冬の夜祭の中でも、伝統を誇り、幽玄・荘厳・雄大さを兼ね備えた特筆すべき祭である。
雪の積もった境内いっぱいに繰り広げられる勇壮な踊りやダイナミックな太鼓の響き、なまはげの雄叫び、柴灯火とただよう煙。
「これぞ男鹿!!」の雰囲気を全身で、腹の底までズシンと感じることができる。なまはげと和太鼓を組み合わせた「なまはげ太鼓」は太鼓の音が山に響きわたり、迫力満点である。この「なまはげ踊り」が、秋田県出身の現代舞踏家  石井獏が振り付け、息子の作曲家 石井歓が曲をつけた勇壮な踊りということは、以外に知られていない。
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